2012/12/18

そしてお別れ

ザキントス島を含めたギリシャは今オフシーズンの為、いろんなお店は3分の1ぐらいしかやっていなかったので、島は凄く寂しく見えた。我々はそんなザキントス島で3日間車を走らせ、隅々まで回った。

放置してあったゴルフII






快晴の朝、Kimothoe Elietをチェックアウトし、ザキントス島を離れた。フェリーから見るアドリア海は透き通るどころか、ペンキで塗ったような青だった。


パトラからギリシャ北部のテッサロニキまで一気に600kmくらいを移動した。
途中の橋が奇麗なつくりだった、リオン・アンティリオン橋というらしい。




山あり谷ありの道を北上し、融通の利かないナビに苦戦しながらテッサロニキに戻る。


原発が見えた。いつも気になるのだが、ヨーロッパのあのどでかい原発の煙突から出てる煙は大丈夫なのだろうか、心配になる。




テッサロニキには夜に着いた。街は今までいた南部のギリシャに比べるとゴミがそこら中に積まれており、空気も悪く居心地があまりよくない。2泊する予定だったので次の日は国境が近いブルガリアにふらっと行くことにした。


翌日、テッサロニキから100km程北上したあたりのところでブルガリアの文字が見えてきた、国境だ。いろいろ不安な気持ちでゲートに侵入する。

ほかの車はすいすいとパスポートを見せて通っていたが、我々だけ左に車を寄せて待ってろと言われ、しばし待つこと数分。ブルガリアの国境警備員が強い口調で
「WHERE ARE YOU GOING? 」と訊いてきた。
ソフィアに行きますと嘘をつく。(ソフィアはブルガリアの首都だが国境から200km離れているためそのあたりをぐるっと回って帰るつもりだった、だがそんな筋の通ってないことを素直に警官に言っても不審に思われるため嘘をついた)

そして警官はさっき以上の強い口調で「WHY?」とだけ訊いてきた。
素直に観光ですと言うと、指で行っていいという合図を出して去っていきパスポートを返してくれた。よっぽど面倒だったのかスタンプはどこかの国のスタンプに重なって押されていた。


やっとこブルガリアに入国できたが、僕らはそこまで時間がない。とりあえず街まで行こうと車を走らせる。


街が見えてきた。

若干のショックが襲ってきた。

ブルガリアはEUの中で最も貧しい国だというが、それが納得できるような街なみだった。旧ソ連の映像に出てくるような古いアパート郡、荒れ果てて放棄された大量の車や鉄道。大きな風呂敷を背負った人々。車はそこまで古い車が走っているわけではないが、どれも汚い印象があった。

あのブルガリアヨーグルトの印象からだとスイスのような奇麗な山々などを想像するが、そういう国ではなかった。






国境近くまで戻ってきて、食堂でご飯を食べることにした。英語は通じなかったが、おいしいバゲットとヌードル入りのスープを飲むことができた。二人で200円くらいか。

余ったお金で売店に行き車に戻ると、言葉は悪いがロマ(ジプシー)風の青年が僕らの車の窓を拭いていた。もうブルガリアのお金を使うこともなかったので50円くらいをあげたら、彼は喜んで売店へと駆けていった。

再び国境を超えるが、またしても僕らだけ時間がかかった。





テッサロニキに戻り、翌日。

この日がやってきてしまった。チューリッヒから旅行を共にしていた絢子氏がここテッサロニキ空港からミラノに3泊してから日本に帰る。そして、僕は夜行バスでここからイスタンブールへと向かう。越路吹雪のサントワマミーがギリシャに来てから毎日聴いていた。



別れの瞬間は寂しかったが、2月までには日本に帰るのでまたすぐに会えると思うと気が楽になった。

11日間付き添ったヒュンダイともお別れし、いよいよ一人に戻った。その日の夜10時にテッサロニキから夜行バスに乗りイスタンブールを目指した。バスは快適でWi-Fiも使えて、客も4、5人しかおらず、僕の前に座っていたアメリカ人の女の子二人組が気さくに写真撮影を頼んだりしてきた。






トルコとの国境は夜中の3時頃に着いた。そうかもうヨーロッパはおしまいか。
真っ暗の外を見ながら、今までの旅を思い返してみた。

ロシアから始まりシベリア鉄道でモスクワに行き、さらにイギリス、南下してモロッコ。フランスで友人宅に泊まり、スイスでは二つの再会があり絢子さんはそこから一緒だったんだ。ドイツ、アムス、コペン、そしてアイスランド。。。。

北欧、バルト3国からポーランド、南下してイタリア、マルタ。最後はギリシャか。




トルコの大きい国旗が見えてきた。ここはアジアゾーンに入る為の通過点だ。

アジアはどんなものだろうか、予定は大分変わってしまったが行けるとこは行きたいと思う。





イスタンブール。。。